僕が住む街香川県その一
今週のお題「僕の住む街・私の地元」
香川県民ですそうですウドンです。
※注意うどんの話しじゃなく香川県の気候風土とか読みたい人は、地元の風土撮影したYouTubeを貼り付けてますのでそちらを御覧ください。
香川県と聞くと多くの人がウドンと答えますが、正直香川県民として否定しません、できません。
Visiting Japanese Shrine during New Year 2013 ...
今日もお昼うどんでした、そしてうどんを食べながら*1今日のブログ何書こうかネタ考えてましたが、香川県で何を言ってもうどんやろって言われる訳で、まあそんな事になってしまったのも自業自得といえばその通りですので否定しません。
うどんの歴史
まず、なぜ香川県にうどんが定着したのか空海最初説とか諸説色々と有りましすが、香川県には昔から一家に一本うどんの麺棒が存在していた*2香川県*3では、田植えの後田んぼ仕事が楽になる頃に「半夏うどん」を作って皆で食べる習慣が有ったほど、生活の中で歴史に刻まれた県民DNAレベル*4を具現化させることに成功したのです。
ここまでの要点
- 万博の宣伝効果凄え
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ウドン好きだった県知事の対応
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ASW・・・コシ最高~
*1:トッピングは勿論ちくわ天とコロッケです。コロッケは最高のコストパフォマンスを引き出すうどんの友です
*2:大げさではなく本当に家庭で普通にうどんを打っていた。うちにもあります
*3:特に中讃・西讃地域に多くうどんを作り食べる習慣があった
*4:先日ニュースで恐怖の記憶はDNAによって次世代へ受け継がれるとの論文があり、悪いことをした香川県民の子供はうどん棒でしばかれていたと考えればDNAレベルの記憶も嘘ではなくなります(仮説)))の文化だったのです。
ここまでの要点
- 空海が中国から持ち帰った麺料理最初説
- 古くからの県民家庭にはmy麺棒myうどん打ち板が装備の歴史
- 県民DNAにはうどんが書き込まれてる
ちょっと前のうどんブーム
現在のさぬきうどんブームに続くのは、昭和60年代、香川県のタウン情報誌「月刊タウン情報かがわ(TJかがわ)」で連載されていた企画「ゲリラうどん通ごっこ」によって、うどん慣れしある種の弛緩状態になっていた香川県民ですら驚くようなうどん店を紹介されたのがキッカケでした。
元々は県内を営業車で廻ってる人が行った先で美味い店を巡ってる内に、情報が色々と巡ってこの企画へつながった経緯があり、営業マン達のネタ的存在だったお店達です。
うどん慣れした香川県民ですら驚く、極地ローカルに特化した普通が通用しないルールによって運営される店の紹介によって、一杯100円そこそこのうどん食う為に大の大人が車乗って田んぼ道をウロウロする事態が生まれたのです。
Setouchi Triennale 2013 Awashima 瀬戸内国際芸術祭 ...
一地方とは言え、このブームをテレビが放っておくはずがなく、まず地方ローカルテレビが特集を始め、中央のテレビがその噂を聞きつけて特集をし、テレビでの認知に乗って雑誌や情報誌等の紙媒体によって拡散されることとなりました。
一杯100円そこそこのうどんを食べに、全国から車に乗ってうどん屋巡りツアーが生まれた為、中には駐車場を用意できず近所の人に悪いので閉店してしまう店も出てくる事に。
ここまでの要点
- 地元民ですら驚くような店が知らない場所で独自進化していた
- 県内を営業で回る営業マンや土建屋さん達の間で美味い店や面白い店の情報が共有されていた
- 地方メディアのおもしろ企画を中央のメディアがとりあげ、全国区へ
近代のうどんブームへの布石
これらうどん文化の中からは当然うどん打ちの名人が生まれ、江戸時代中期頃には名人によって美味しいうどん屋さんがあちらこちらに生まれました。
これらのうどん屋さんが生活の中に根付いた中、高度成長期の昭和40年台に革命が起きます。
大阪万博の時さぬきうどん店が出店され、広く認知され始めた機を逃さず当時の金子香川県知事((金子県知事は自他ともに認めるウドン好きでした)))がトップセールスで日本全国へ香川=うどんのイメージを根付かせました。
同時期、うどんのために生まれたオーストラリア産の小麦ASWが開発され、香川県民が追い求めていた理想((うどん打ちのコツは、柔らかい生地を鍛え、弾力をいかに引き出すか。塩・加水量・熟成時間、面の奏でる声を聞きおっちゃんの長年の修練によって手に入れた感で最良のタイミングをみはからい麺状に切り、時間を置かず茹で、茹で上がりをいっきに頂く。これが香川県民が求めるうどんの姿です。